前回、「働く」とは何なのか。という話から、「仮説採用仮説」という考え方について書きました。
僕らは、自分でも気づかないうちに、
「会社とはこういうもの」
「仕事とはこういうもの」
「お金とはこういうもの」
「人生とはこういうもの」
という、たくさんの仮説を採用して生きています。
そして、そのもっと奥には、「この世界とは、そもそも何なのか?」という問いがある。
その問いに、昔から人類が置いてきた大きな言葉があります。
「神」です。
前回の最後に、「神社には『神』という概念がある。でも、その『神』という概念そのものが、まだ不完全なのではないでしょうか。」と書きました。
今回は、僕自身が、なぜ「神」というものを確信するようになったのか。そして、僕が今、神をどう捉えているのか。その話をしてみたいと思います。
僕は、最初から「神はいる」と思っていたわけではありません。
むしろ、「本当にそうなのか?」というところから入っています。
これは、前回の「仮説採用仮説」と同じです。
何かを信じる。というより、一度、仮説として採用してみる。
そして、その仮説を採用した状態で世界を見てみる。
何が見えるようになるのか。
何が変わるのか。
現実はどう動くのか。
必要なら、「やっぱり違う」と仮説を捨てる。
僕にとって、これが研究するということです。
そんなふうに、いろいろなものを見ていく中で、僕がどうしても無視できなくなってきたものがあります。
それが、「見えていないもの」でした。
以前の記事でも書いた、「スコトマ」という言葉があります。
ルー・タイスの言葉を借りれば、「スコトマを外す」。つまり、自分が見えていないものに気づいていく。
人間の脳には、自分にとって重要だと判断したものを見つけやすくする働きがあります。RASです。
たとえば、欲しい車ができると、それまで気にもしていなかった同じ車が、街中を走っていることに急に気づく。
車が突然増えたわけではありません。自分の「見る世界」が変わった。ということです。
逆に言えば、僕らが見ていないものは、「存在していない」のではありません。ただ、「認識していない」だけかもしれない。
ここは、僕にとって非常に大きな発見でした。
さらに面白かったのが、宇宙について知っていったことです。
現在の宇宙論では、僕らが普段「物質」として認識しているものは、宇宙全体のごく一部だと考えられています。
おおまかに言えば、
通常の物質が約5%。
ダークマターが約27%。
ダークエネルギーが約68%。
つまり、僕らが直接見ることのできる通常の物質は、宇宙全体の約5%にすぎない。
もちろん、「残り95%は何も分かっていない」という単純な話ではありません。ダークマターやダークエネルギーについては、観測された現象を説明するための重要な理論や証拠があります。
でも、少なくとも僕らが日常的に見ている「物質」だけで、宇宙全体を説明できるわけではない。
ここが、僕にはとても面白かった。
脳にも、「見えていないもの」がある。
宇宙にも、「直接見ることのできないもの」がある。
つまり、僕らが普段「これが世界だ」と思っているものは、ひょっとすると、世界のほんの一部分なのではないか。
ここで、一つの当たり前のようで、とても重要なことに気づきました。
「見えない」ということと、「存在しない」ということは、まったく違う。
これは、僕らの人生にもそのまま当てはまります。
人との縁。
信頼。
直感。
空気。
タイミング。
身体感覚。
場の雰囲気。
「なんとなく、こっちだ」という感覚。
これらは、目で見ることはできません。
でも、僕らは確かに、それらの影響を受けながら生きています。
むしろ、人生を大きく動かしているものほど、直接見ることができないものも多い。
そこで僕は、一つの仮説を採用してみることにしました。
それが、「神」という仮説です。
ここで言う「神」は、空の上にいる誰か、という意味だけではありません。
僕が採用してみた仮説は、もっとシンプルです。
「僕らがまだ認識できていないものを含めて、この世界そのものが神なのではないか。」
という仮説です。
もちろん、これが正しいと言いたいわけではありません。だからこそ、「仮説」として採用する。
もし、この世界には、自分の五感や意識では捉えきれていないものが存在しているとしたら。
もし、自分が「偶然」と呼んでいる出来事の中にも、まだ自分には見えていないつながりがあるとしたら。
もし、自分の無意識が、自分の意識よりもはるかに多くの情報を扱っているとしたら。
その前提で、世界を見てみる。
すると、今までとは少し違う世界が見えてきます。
一般的に、「神」という言葉を聞くと、「物理的な根拠を示すことができないもの」というイメージを持つ人も多いと思います。
だから、「神を信じる」ということは、「証明できないものを信じること」だと思われやすい。
でも、日本の「神」を見ていくと、少し違った世界が見えてきます。
日本では、
山にも神がいる。
川にも神がいる。
海にも神がいる。
風にも神がいる。
雷にも神がいる。
火にも神がいる。
太陽にも神がいる。
稲にも神がいる。
土地にも神がいる。
祖先にも神がいる。
ここで大切なのは、神が、自然から切り離された抽象的な存在としてだけ捉えられていないことです。
むしろ、目の前に現れている自然現象や、自然の働き、人間の力を超えたもの、そこに神を感じ取っている。
つまり、「神には物理的根拠がない」というより、
「目に見える自然現象を通して、目に見えない働きを感じ取る」
という世界観が、日本にはあったのではないか。
僕には、そう見えてきます。
たとえば、雷が鳴った。
現代の僕らなら、「大気中の放電現象」と説明することができます。
もちろん、その説明は正しい。
でも、それだけが世界のすべてなのでしょうか。
雷という現象を見て、「そこには何か、人間の力を超えた働きがある」と感じることもできる。
古代の日本人は、自然現象と、人間と、土地と、季節と、身体と、社会を、完全に切り離して考えてはいなかったのではないでしょうか。
陰陽師たちが、天体の動き、季節、気象、土地、身体、社会の出来事などを、互いに関係するものとして捉え、その関係性を読み解こうとしていたことも、その一つの表れとして見ることができます。
もちろん、当時の人々が、現代の僕と同じ意味で「神」を定義していた、ということではありません。
僕が面白いと思うのは、むしろ、その世界の見方です。
世界を、バラバラの出来事としてではなく、つながった一つのものとして見る。そこに働いているものを、感じ取ろうとする。
その感覚に、僕は「神」という言葉が、とてもよく似合うと思うのです。
ここで、前回の「仮説採用仮説」に戻ります。
「神がいるかもしれない」という仮説を、一度、自分の世界の前提として採用してみる。
すると、何が起こるのか。
人との出会いを、ただの偶然として見るのか。それとも、「この出会いには何か意味があるのかもしれない」と見るのか。
失敗を、「最悪の出来事」と見るのか。それとも、「ここから何を受け取れるのだろう」と見るのか。
直感を、「気のせい」と切り捨てるのか。それとも、「自分の無意識が何かを捉えているのかもしれない」と見るのか。
世界は、まったく違って見えてきます。
僕が「神」という仮説を採用することで、特に大きく変わったと感じているのが、無意識との関係です。
僕らの意識が、自分自身のすべてを把握しているわけではありません。
むしろ、自分では気づいていない情報を、身体や無意識が拾っていることは、日常でもたくさんあります。
だから、「自分の意識だけで世界を判断する」という前提を少し緩める。
そして、「自分にはまだ見えていないものがある」という前提を持つ。
すると、無意識を、自分を邪魔するものではなく、自分を助けてくれるものとして扱えるようになる。
僕にとって、これはかなり大きな変化でした。
ここで、僕の中で一つの言葉がつながりました。
無意識を味方につける。
そして、それをもっと大きな世界観で捉えると、
神を味方につける。
ということになるのではないか。
もちろん、神様を自分の都合のいいように動かす、という意味ではありません。
そうではなく、自分の意識だけで世界をコントロールしようとすることをやめる。自分には見えていないものがあると認める。そして、それらと協調しながら生きる。
その状態を、昔の日本人は、「神とともに生きる」という感覚で捉えていたのかもしれません。
「運がいい人」という言葉があります。
では、運がいいとは、一体どういうことでしょうか。
僕は最近、「運がいい人」というのは、単純に幸運な出来事が多い人ではないのではないか、と思うようになりました。
自分が見えていなかったものに、気づける人。
偶然の中に、新しい可能性を見つけられる人。
人との縁を、受け取れる人。
自分の直感や身体感覚を、無視しない人。
失敗の中から、次の一手を見つけられる人。
そういう人は、同じ世界に生きていても、他の人より多くの情報を受け取っている。
そして、受け取れる情報が増えれば、選択肢が増える。
選択肢が増えれば、行動が変わる。
行動が変われば、結果が変わる。
その結果、周囲から見ると、「あの人は運がいい」となる。
そう考えると、「運が良くなる」ということは、ひょっとすると、
世界とのつながりが増えること
なのかもしれません。
ここまで考えてくると、神社の意味も、少し違って見えてきます。
神社は、「神様にお願いをする場所」だけではない。
自分の意識だけで世界を捉えることを、一度やめる場所。
自分には見えていないものがあることを、思い出す場所。
自然や、土地や、祖先や、人とのつながりを、もう一度感じる場所。
そして、「自分もこの世界の一部なのだ」と、自分の位置を取り戻す場所。
そんなふうにも、僕には見えてきます。
こうして、僕自身が神について考えてきたことを、一つの言葉にしてみると、こうなります。
神とは、僕らがまだ認識できていないものを含めた、この世界そのものなのではないか。
僕は、神を新しく発明したいわけではありません。むしろ、逆です。
この感覚は、日本人が昔から持っていたものなのではないか。
山を見て、山そのものに神を感じる。
雷を見て、雷そのものに神を感じる。
稲の実りを見て、そこに神の働きを感じる。
土地に入り、その土地の神を祀る。
自分たちの力だけでは説明できないものを、「ないもの」として切り捨てるのではなく、そこに何かがあると感じ、敬い、関係を結ぶ。
その感覚は、現代の僕らが忘れてしまっただけで、決して古臭いものではないのかもしれません。
ここまで来ると、「科学か、神か」という二択そのものが、少し変に見えてきます。
科学は、「目の前で起きていることを、どう説明できるか」を追究していく。
神という仮説は、「その現象を含めた世界全体を、どう捉えるか」という問いを投げかける。
雷を、電気現象として説明することと、雷に神を感じることは、必ずしも矛盾しない。
むしろ、電気現象として深く知れば知るほど、「そもそも、この世界はなぜこうなっているのだろう」という問いが、さらに深くなることもある。
僕は、そこに科学と神の接点があるように感じています。
だから僕は、「神は存在する」と証明したいわけではありません。そもそも、それを完全に証明できるとも思っていません。
ただ、僕は一つの仮説を採用してみたい。
この世界には、僕の意識ではまだ捉えられていないものがある。
そして、それらを含めた世界そのものを、僕は「神」と呼んでみる。
この仮説を採用すると、世界が少し違って見えてくる。
人との出会いが変わる。
出来事の受け取り方が変わる。
自分の身体との関係が変わる。
無意識との関係が変わる。
そして、自分一人の力だけで、すべてをコントロールしようとしなくなる。
世界の側から、何かを受け取れるようになる。
もしかすると、「神を信じる」ということは、神という存在を盲目的に信じ込むことではないのかもしれません。
それは、「自分には見えていないものがある」と認めること。そして、その見えていないものを含めた世界と、関係を結び直すこと。
その結果として、
無意識を味方につける。
人との縁を味方につける。
環境を味方につける。
偶然を味方につける。
そして、人生そのものを味方につけていく。
僕は、それを昔の日本人は、「神とともに生きる」という言葉で感じていたのではないかと思っています。
そして、それが現代の言葉になったとき、もしかすると、「運が良くなる」ということなのかもしれません。
ここまで来ると、もう一つ、どうしても気になることがあります。
もし、神がこの世界そのものだとしたら。
なぜ、日本人はわざわざ、「神社」という場所をつくったのでしょうか。
山にも神がいる。
川にも神がいる。
土地にも神がいる。
海にも神がいる。
それなのに、僕たちは、そこに「社」をつくった。
なぜでしょう。
神を閉じ込めるためでしょうか。それとも、神と人間との間に、何か特別な「接点」をつくるためだったのでしょうか。
僕は、ここに神社というものの、とても重要な役割が隠れているように思っています。
神社とは、神を祀る場所である。もちろん、それは間違いではありません。
でも、もし神が、僕らがまだ認識できていないものを含めた、この世界そのものだとしたら。
神社は、単に「神様がいる場所」ではなく、
僕ら自身の世界の見方を変える場所
なのかもしれません。
そして、そこには、「社」というものの、もう一つの意味が見えてきます。
次回は、いよいよ、「なぜ、日本人は神を社に祀ったのか?」について、考えてみたいと思います。
音陽師くま
企業内神社プロデューサー
会社の理念を、額の中から、立ち止まれる場所へ。オフィスの一角に「理念の社(やしろ)」を設計する、企業内神社プロデューサー。ドラマーとしての音楽、コーチング、そして播磨陰陽師のもとで触れた陰陽道——その探究を土台に、組織のリズムと場を整えます。神社は願いを叶える場所ではなく、本来の自分と世界の誠を思い出す装置である、というのが出発点です。風水経営コンサルタント、奉納専門アーティストとしても活動。「音陽師くま」は文化コラムを書くときの筆名。式神AIコヤネが相棒。
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