前回まで、
「会社には、その会社だけの『公理』がある」
という話から、
「これからの企業にふさわしい『神話』とは何か?」
というところまで話してきました。
企業には、
「これは大切なことだ」
「こういうときは、こうする」
「うちの会社は、こういう会社だ」
という、明文化されていない前提があります。
それが積み重なり、やがて会社の物語になる。
僕はそれを「企業神話」と呼んでいます。
では、そもそも僕らは、どんな前提の中で「働く」ということを捉えているのでしょうか。
今回は、そこを少し掘り下げてみたいと思います。
以前、RASの話をしました。
RASをものすごく簡単に言えば、
「自分にとって重要だと判断したものを、見つけやすくする仕組み」
です。
たとえば、急に欲しい車ができたとします。
それまでは、街を歩いていても特に気にしていなかったのに、その車を意識し始めた途端、
「こんなに走ってたんだ!」
と、街中にその車がいることに気づくようになる。
もちろん、その瞬間に車の台数が増えたわけではありません。
自分の「見る世界」が変わった。
ということです。
ここから、僕は一つの仮説を立てています。
それが、
「仮説採用仮説」
です。
仮説とは、「こうなのではないか?」という、まだ確定していない考えです。
でも、ここで重要なのは、仮説を「考える」ことではありません。
その仮説を、一旦、自分の世界を動かす前提として採用してみる。
ということです。
例えば、「この会社は、100年続く会社になる」という仮説があったとします。
それを、「そんな未来になるかもしれない」と考えるだけではなく、「この会社は100年続く会社になる」ということを、自分にとっての事実として一旦採用してみる。
そして、その前提で生きてみる。
すると、見えるものが変わってきます。
「100年続く会社になるのなら、今のこの判断はどうなんだろう?」
「この技術は次の世代に残せるだろうか?」
「この人材は10年後、20年後にどうなっているだろう?」
「今の利益だけを考えていて、本当にいいのだろうか?」
そんなことを考え始める。
つまり、仮説を採用すると、「探すもの」が変わる。
そして、「探すもの」が変わると、世界の見え方そのものが変わってくる。
さらに面白いのは、仮説を採用した瞬間から、世界が「検証する場所」に変わっていくことです。
「本当にこの仮説でいいのか?」という目で、現実を見るようになる。
そして大切なのは、仮説を証明するものだけを探すことではありません。
むしろ、
「もし、この仮説が間違っているとしたら、何が起こるだろう?」
と見ることです。
そうすると、仮説を採用することと、仮説に固執することは、まったく違うものだと分かります。
大胆な仮説を採用する。
そして、その仮説を現実にぶつける。
観察する。
検証する。
必要なら、仮説を更新する。
僕は、これが「研究する」ということの本質の一つなのではないかと思っています。
そしてこれは、僕自身が実際に使ってきた考え方でもあります。
僕自身、この仮説を実際に使って、
などを体験しています。
古くは、「式神」の研究手法など、一見、トンデモ話に見える日本の陰陽師たちの研究姿勢も、僕にはこの「仮説採用仮説」に根差したものとして見えてきます。
もちろん、これらが「正しい」と言いたいわけではありません。
むしろ、「本当にそうなのか?」を確かめるために、仮説として採用してみる。そして現実と照らし合わせる。
僕にとっては、それが研究するということなのです。
こうした話を考えていると、20世紀の数学や科学の歴史が、とても面白く見えてきます。
ゲーデルの不完全性定理。
チューリングの停止問題。
そしてチャイティンの仕事。
細かい数学の話はここではしません。
ただ、大きな流れとして見ると、人類が長い間、「世界を完全に説明できる、完全な体系」を夢見てきたことに対して、それがそんなに簡単なものではないことが、数学や計算理論の世界から次々と突きつけられていった。
ある体系の中には、その体系のルールだけでは証明できない命題が存在する。
どんな計算問題でも、「必ず答えを出せる万能な方法」を作ることはできない。
そして、数学の中には、どんな短いアルゴリズムでも説明しきれないような情報が存在する。
こうして、「人間が世界を完全に把握し、完全に説明できる」という夢そのものが、大きく揺さぶられていきました。
そして20世紀は、数学や科学だけではなく、世界観そのものも大きく変わった時代でした。
それまで世界を説明する大きな物語の一つだった「神」という概念も、次第に疑われるようになっていきます。
科学が進歩し、神を持ち出さなくても、世界の多くの現象を説明できるようになった。
そして、「神などいない」という世界観も、一つの大きな思想として広がっていきました。
ついには、「神は嘘だった」というところまで行く。
でも、ここで僕は、もう一度、「仮説採用」という視点に戻ってみたいのです。
「神はいない」
というのも、ひょっとすると、僕たちが採用した一つの仮説なのではないでしょうか。
もちろん、「神がいる」という仮説を採用しろ、と言っているわけではありません。
そうではなく、
僕たちは、いったいどんな仮説を採用して、この世界を見ているのか?
ということです。
ここで、話を「働く」に戻します。
僕らは、「働く」という言葉を使うとき、いったい何を前提にしているでしょうか?
現在、「働く」と言えば、ほとんどすべての人の中に、
「自分は労働者である」
という自覚が、公理のような前提として染み込んでいます。
そして残念ながら、現代社会では、世界中のすべての「働く」が、法律までも含めて、「労働」を前提に動いてしまっています。
会社も。
雇用契約も。
賃金も。
労働時間も。
休日も。
社会保険も。
福利厚生も。
最低賃金も。
労働法も。
もちろん、これらの制度が悪いと言っているわけではありません。必要な仕組みもたくさんあります。
ただ、その根っこにある、
「働く=労働」
という前提そのものについて、僕たちはほとんど疑っていないのではないでしょうか。
労働とは、生きていくために必要なものを得るために、自分の時間や能力を提供し、その対価を得ること。
もちろん、それは必要です。だからこそ、僕らは働いてきました。
でも、労働って、やっぱり嫌なものでもあります。
必要なのは分かる。でも、感情的にはしたくない。
だから、「労働を辞めてリタイアする」という生き方も、一つの理想として語られるようになりました。
では、もし、「働く」ということを、「労働」だけで捉えなくてもいいとしたら?
ここで、僕はもう一つの言葉を置いてみたいのです。
それが、
「勤労」
です。
僕が考える勤労は、単に、「楽しく仕事をすること」ではありません。
また、「成功している人の理想的な働き方」という意味でもありません。
もっと根本的なものです。
勤労とは、「こういう未来を実現したい」という理想像を提示すること。
そして、その理想像に向かって、自分の力を使って参加していくこと。
例えば、
「こんな会社にしたい」
「こんな社会にしたい」
「こんな地域にしたい」
「こんな未来を子どもたちに残したい」
というものを、まず自分の中に描く。
それを、まだ現実にはなっていないからこそ、一つの仮説として採用する。
そして、その未来を現実にするために、今日の仕事をする。
そう考えると、勤労とは、単なる「仕事のやり方」ではなく、
未来に対する態度そのもの
なのではないでしょうか。
僕は、ここに「労働」と「勤労」の大きな違いがあると思っています。
労働は「現在を維持するための仮説」を生きる。
勤労は「望む未来を実現するための仮説」を生きる。
つまり、勤労とは、「こういう未来がある」という理想像を、まだ存在していない現実に先に提示することなのです。
そう考えると、いわゆる「働き方改革」についても、少し違って見えてきます。
労働時間を減らす。
休日を増やす。
リモートワークにする。
副業を認める。
もちろん、それぞれ大切なことです。
でも、それだけでは、「働く=労働」という大前提そのものは、変わっていません。
働く時間を短くしても、「労働者として生きる」という仮説を採用したままなら、世界の見え方は、それほど変わらないのではないでしょうか。
だから僕は、「働き方」を変える前に、
「働くとは何なのか?」
という、もっと手前の公理を問い直す必要があると思っています。
ここまで考えてくると、最初に話した「仮説採用仮説」と、「働く」ということが、一本につながってきます。
僕らは、自分でも気づかないうちに、たくさんの仮説を採用して生きています。
「会社とはこういうもの」
「仕事とはこういうもの」
「お金とはこういうもの」
「人生とはこういうもの」
「人間とはこういうもの」
そして、「働くとはこういうもの」。
それらを、いつ採用したのかも分からないまま、「事実」として生きている。
だとしたら、一度くらい、それを疑ってみてもいい。
そして、新しい仮説を採用してみてもいい。
「働くとは、本当はこういうものなのではないか?」
と。
僕にとって、その一つの答えが、「勤労」です。
勤労という理想像を、まだ存在していない未来に向けて提示する。
その仮説を採用して、実際に生きてみる。
そして、現実がどう変わるのかを観察する。
もしかすると、「働く」というもの自体を、もう一度、研究し直すことができるのではないでしょうか。
さて。
ここまで来ると、最初の話に戻ってきます。
「会社には公理がある」という話。
「企業神話」という話。
「仮説を採用する」という話。
「働く」という話。
そのすべての奥に、実は、もっと大きな「世界観」があります。
僕らは、どんな世界を生きているのか。
そして、その世界を、何を前提に見ているのか。
そこには、昔から一つの大きな概念があります。
「神」
です。
「神は世界を創った。」
「神は完全である。」
「神は存在する。」
そして、
「神はいない。」
これらもまた、僕らが世界を捉えるための、大きな仮説として見ることができるのではないでしょうか。
神社には、「神」という概念があります。
でも、その「神」という概念そのものが、まだ不完全なのではないでしょうか。
では、神とは、いったい何なのか?
「神は嘘だった」と言われた20世紀を越えて、僕たちは、「神」をどう捉え直すことができるのか。
次回は、いよいよ、「神」について、深掘りして話していきます。
音陽師くま
企業内神社プロデューサー
会社の理念を、額の中から、立ち止まれる場所へ。オフィスの一角に「理念の社(やしろ)」を設計する、企業内神社プロデューサー。ドラマーとしての音楽、コーチング、そして播磨陰陽師のもとで触れた陰陽道——その探究を土台に、組織のリズムと場を整えます。神社は願いを叶える場所ではなく、本来の自分と世界の誠を思い出す装置である、というのが出発点です。風水経営コンサルタント、奉納専門アーティストとしても活動。「音陽師くま」は文化コラムを書くときの筆名。式神AIコヤネが相棒。
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