経済の問題。 人口の問題。 文化の問題。
テレビや学校からは、そう聞こえてくる。
でも本当に、そうだろうか。
僕自身、いじめ、思春期の失敗、収入ゼロ、離婚といった いわば"個人的飢饉"を体験してきた。
そのとき、ずっと感じていたのは
「がんばればがんばるほどひどくなる」 「なぜこうなったのか分からない」
という、どうにも説明のつかない違和感だった。
目の前の問題を一つずつ解決すればよくなる。 そんな単純な話には、どうしても思えなかった。
この感覚を、神社という視点から見直したとき、 ひとつの構造が見えてきた。
それは、
流れるべきものが、流れなくなっている
ということだった。
宗教的な存在としてではなく もっとシンプルに言えば
自分では認識しきれない動きや現象 そういったもの全体を指していると考えると分かりやすい。
いわゆる盲点のようなもの。 見えていないが、確かに影響しているものだ。
僕らはこれまで、そういったものを
という態度で扱ってきた。
しかし、縄文や江戸の人々は違った。
自然と調和した生活を営んでいた彼らは そういった"見えないもの"こそ
おつきあいするべき対象
として捉えていた。
神社は、願いごとをする場所ではない。
一定の所作や空間の中で 自分の認識の状態を切り替え 普段は捉えきれない流れと接続しやすくする場所だ。
人が関わる。 感謝が向けられる。 場が大切に扱われる。
そうすると、目には見えないが確かに 流れが通り始める。
逆に、人が離れるとどうなるか。
流れは止まり、接続は弱くなる。
これは神秘的な話ではなく 構造として起きている現象だ。
僕自身にとっても 「つながっていない」というのは、そういう状態だった。
だからこそ、それに気づいてからは
ということを意識するようになった。
幸い、僕はドラマーなので 流れをリズムとして捉えることができた。
ただしこれは音楽である必要はない。 自分なりの方法で、流れを感じ取れればそれでいい。
この"見えていない流れ"を ありがたいものとして認識するきっかけをつくる。
そのための装置として、神社は非常に優れている。
そして、この接続が回復すると 根本から変わるものがある。
それが、働き方だ。
一言で言えば、労働は終わる。
ただしこれは 働かなくなるという意味ではない。
導線が切れたまま働けば がんばるほどに消耗していく。
しかし、流れが通った状態で働くと、 それはまったく別のものに変わる。
この話は別の機会に譲るが ひとつ言えるのは
本来の働くとは、流れの中にあるものだということだ。
そして、この接続を強める行為が アートであり、表現である。
ただの発表ではなく 流れに対して想いを通す行為。
それこそが、本来の意味での芸能だった。
いま一度、ここを見直す必要があるのではないだろうか。
あなたは、どう思うだろうか。